九頭龍王 その2

箱根の九頭龍伝承と祭祀

箱根の九頭竜伝承は九頭竜の代表格とも言えます。『群書類従2』330ページ~336ページ「筥根山縁起并序」の項より、一文を引用します。

「又湖水西の汀に九頭の毒龍有て時々雲を拏び波を起こして人民を損害する事あり。 上人衆生の苦を救ふを願とす。此故に彼深潭に臨で仏に祈誓し給ふに毒龍 則 降伏して其形を改め、宝珠錫杖及水瓶を捧げて出現す。上人則鉄鎖を呪して縛して以て大木に繁ぐ。其木を栴檀漢羅樹と云。今尚湖中に有り。」

九頭龍神社の縁起は、箱根神社と同じ天平宝字元年(757年)です。九頭龍神社は箱根神社を開いた万巻上人が調伏した龍を奉る神社です。

芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前に、箱根の村には毎年白羽の矢が立った家の若い娘を芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供に差し出すという悪しき習慣がありました。

それを知った箱根山で修行中の万巻上人(まんがんじょうにん)は娘達を助けて、村人を助けるために法力で毒龍に改心してもらうため立ち上りました。 万巻上人は御仏に祈り、人身御供の代わりに三斗三升三合三勺の赤飯を21日間の祈祷満願日の前日6月13日に捧げることを誓います。湖畔で経文を唱え 毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説いていきました。

毒龍は 姿形を変えて、宝珠・錫杖・水瓶を捧げ現れました。それでも鉄鎖の法を修し、龍を湖底の白檀の大樹に縛り付けて、仏法を説き続けていきました。それから後に、その木は「逆さ杉」と呼ばれるようになりました。 龍は、もう悪事はせず、地域一帯の守り神になることを約束をします。万巻上人は龍の約束が堅いことを知って、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにしました。その満願の日とは6月14日です。そのため九頭龍神社の祭りは、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭になっています。 今でも芦ノ湖の湖水祭ではお櫃に赤飯を入れて、御供船に載せて 逆さ杉のところで湖底に沈め捧げています。このお櫃が浮かび上がってくると龍神が受け入れなかったとされて、災いが起きると言われています。

近年では大正12年(1923年)の湖水祭でお櫃が浮かびました。そしてその数ヵ月後に起きた関東大地震(大震災)から、九頭龍神社の霊験があったとされています。

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平城京の九頭龍伝説

発掘された平城京の二条大路木簡には、奈良の南山に住む九頭一尾の大蛇に疫病(天然痘)の原因となる鬼を食べて退治してもらい、都での流行阻止を祈願したとされる文が書かれています。ここでは人を害するものではなく、病気を食べる利益をもたらすものとして扱われています。

「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令」 (原文は縦書き)

唐の時代の医学書「千金翼方」にも、熱病治療の時に唱えられていた呪文「禁瘧鬼法」の一つとして同様の呪文が書かれています。しかし、「千金翼方」の文ではて、二条大路木簡の「一大蛇九頭一尾」に対応する部分は「地中有蟲、赤頭黄尾(地中に住む虫(蛇)有り、赤い頭で黄色い尾を持つ)」となっていて、九頭とは記されていません。

「書桃枝一尺、欲發即用、噀病人面、誦咒文二七遍、擊著頭底。天姓張、地姓皇、星月字長、日字紫光。南山有地、地中有蟲、赤頭黄尾、不食五穀、只食瘧鬼、朝食三千、暮食八百、少一不足、下符請索、語你速去、即得無殃,汝若不去,縛送魁剛,急急如律令。」

戸隠の九頭龍伝承

戸隠山の九頭龍信仰の源は、戸隠神社の九頭龍大神です。鎌倉中期に記された『阿裟縛抄諸寺略記』の中に、西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者が法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼をこの地で岩戸に閉じこめたという言い伝えが残されています。

悪さをしたため岩戸の中に封じられた龍になっていますが、山伏たちが、九頭龍権現の名で、雨乞いをして水神として人々を助けたという両面がある調伏善龍化伝承です。雨乞い、縁結びの他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされています。

三井寺の霊泉と九頭龍大神

近江国三井寺(園城寺)金堂の近くには天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたという霊泉が沸いています。この霊泉は「御井(みい)」と呼ばれて、「御井の寺」から三井寺の通称となっています。その霊水は、古来より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきました。

この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられる、と現在も伝わっています。その九頭龍神は、年に十日の間、深夜 丑の刻に姿を現わして、黄金の御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるといいます。そのため、その期間は泉のそばを通らない仕来たりでした。近づいたり、覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきました。

猪名川・五月山一帯の九頭龍伝承

久々知妙見宮は清和源氏の祖、源満仲(または多田満仲 912年?か正確には不明~- 997年)が開基したと伝わる妙見宮です。

天徳元年(957年)源満仲が矢文を放ったところ、矢文は岩に当たりました。その岩を矢文石と名付けて、その地に北辰星(妙見宮)を祀ったと伝わっています。その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられたときに、源満仲が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の住吉大社に参籠しました。参籠して27日目、『北の空に向って矢を射よ。その矢のとどまる所を居城とすべし』との神託を受けます。満仲は鏑矢を放ちました。家来を引き連れた満仲は、空高く五月山を越え放たれた矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時に、白髪の老人に出会うことで、矢の落ちた場所を知ることが出来ました。この場所は「矢を問うたところ」として、『矢問(やとう)』という地名で残っています。

満仲が老人に教えられた場所に行ってみると、河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に満仲が射た矢が刺さって、暴れまわっていました。一頭はこの地で死に血水跡はまるで紅の河のようになって流れいました。もう一頭は死に物狂いに山を突き破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出ていました。龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていましたが、大水害の度に鶯の森、(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天しました。その後に、その地には12以上も鳥居の立ち並ぶ白龍神社が建立されて祀られることになりました。湖沼の水は干いて、よく肥えた土地が残り、多くの田畑が出来ることになりました。そのため 後に「多田」という地名が付けられました。村人等は九頭龍の犠牲の御陰で田畑が拓かれた事をとても感謝して、九頭龍大明神、九頭龍大権現、白龍大神と崇めて御祀りしました。満仲は、この地に居城を築いて多田源氏を名乗りました。

少なくとも1988年までには、前述の九頭龍が死んだ場所として「九頭死(くずし)」という地名が残っていました。現在は「寿久井の地蔵尊」という地名の付近です。

兵庫県川西市の九頭神社は、九つの霊石を御祀りして首から上の病に効く神として信仰され頭痛歯痛眼の病等の平癒に効くと伝えられています。最近は こっそりと「頭の良くなるように」と祈る若者の御参りもあるといいます。

猪名川・五月山(能勢~多田~池田市)一帯で「九頭龍大(明)神」その対の「白龍大(明)神」等として祀られている場所

九頭竜権現社(木造祠風)
・・・ 大阪府豊能郡能勢町山田(湯小屋神社の北東150mの山中 妙見宮の妙見菩薩信仰の元となる妙見山に祀られている隕石の落下地点「能勢町稲地」から北西1400m程の場所)
九頭神社
・・・ 大阪府豊能郡豊能町余野
九頭神社
・・・ 兵庫県川西市東多田2(住宅街の外れ)
九頭竜神社
・・・ 大阪府池田市建石町と上池田の境界付近(池田城の砦跡地)
白龍神社(小戸神社内)
・・・ 兵庫県川西市小戸1-13-17(天王宮、中橋西と呼ばれる辺り)

大正時代頃まで「摂津国能勢郡西郷村大字宿野字九頭森」など、地名にもそのまま九頭龍の名が残っていました。

須佐男神社(旧・久々知妙見宮、兵庫県尼崎市久々知1-3-28)に満仲が弓矢を放ったという伝承の残る岩(矢文石)が残っています。

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