九頭龍王 その1

白山の翠ヶ池(みどりがいけ)から十一面観音の垂迹(すいじゃく)でもある九頭龍王が現れますが、九頭龍伝承や九頭龍伝説として、日本各地には九頭龍(大神)に関する伝承・伝説が残っています。

鹿野山の九頭龍伝承

千葉の鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には、九頭龍という九頭の巨大な大蛇が棲みついて、村人を襲い人々を喰らっているといいます。 村の長が都に使いをたて大蛇退治を願い出たところ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が大蛇退治に遣わされました。 村人がその恐ろしさをタケルに語ると、タケルは腰の剣を抜いて「必ず この草薙剣で大蛇を退治してみせる」と誓い、村人の案内で小川沿いの道を鬼泪山に分け入っていきました。 タケルは懸命に九頭龍を探しますが一向に見つかりません。疲れ果てていつしかタケルは眠りこんでしまいました。するとそこに九頭龍が現れて、タケルを一飲みにしてしまいました。

三日程たったある日のこと。村の娘が小川で洗濯をしていると、だんだんと川の澄んだ水が赤く染まっていきました。娘はあまりの出来事に驚いて、村人を呼んできます。「タケルノミコト様が大蛇を退治して下さったからに違いない」「いやもしかしたら、タケルノミコト様の身に・・・」などと話し合っていると、ヤマトタケルノミコトが現れて「つい油断して九つの頭の蛇に一呑みにされてしまった。幸いにも生きていたので 約束どおり この剣を抜いて、奴の腹の中を滅多斬りに切り裂いて、外へ出ることができた。そして、九つの頭を全部切り落としてやった」と村人に言いました。

この時流れ出た血が、川を三日三晩染めたので、今でもその川のことを「(血)染川」と呼んでいます。そして、ヤマトタケルノミコトが退治した九頭龍の霊魂は長年を通じて供養されて、「九頭竜権現」として祀られるに至り、今でも神野寺仁王門に鎮座されています。また、鹿野山測地観測所の下には「大蛇作」「蛇堀」などと呼ばれる場所があります。そこはかつて大蛇が棲息していた場所だと言われています。

鹿野山の伝承の外伝

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九頭龍川流域の伝承

黒龍大神信仰の創始

雄略天皇21年(477年)に、男大迹王(第26代天皇:継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河だった黒龍川(後の九頭龍川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜に創祀されました。この儀によって現代まで連綿と続く九頭竜湖~九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされています。

その後に、黒龍大神と白龍大神のうちの前者は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされました。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年{593年})、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 と 黒瀬川(後の九頭龍川)流域の守護神として祭祀されてきました。

第43代元明天皇、和銅元年(708年)9月20日、高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が継体天皇の御遺徳を景仰し、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)で御霊を合祀しました。

延暦3年(784年)8月、社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、坂上田村麻呂の父)が再建しました。

九頭竜の出現

寛平元年(889年)6月に、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべました。すると九つの頭を持った竜が現れて、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きたといいます。それ以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになりました。

その後の黒龍大明神信仰

承平元年(931年)藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、毛谷神社神職となりました。(藤原姓の神職の祖、第一代)

承平3年(933年)長者となった生江の世常の宿祢(いくえのよつねのすくね)の夢にお告げがあり、社殿を新しく造りかえた。毎年七度の祭礼が行われてきたといいます。それが延喜式にある坂井郡毛谷神社で、今の毛谷黒龍神社にあたります。生江の世常の宿祢が長者となる奇跡の物語は、今昔物語集や宇治拾遺物語に載っています。

光明院御宇暦応元年5月2日、二十四代藤原行古が左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死しました。暦応元年5月、新田義貞が斯波高経と戦ったときに、 黒龍神社も兵火にかかり燃えてしまいます。このとき神霊は、白龍となって山上に飛んで、木の上にとまりました。そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになりました(「太平記」第二十巻に黒龍明神下での戦いの記載)。

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